
琉球王朝時代に国の宗教とされていた琉球神道。その最高地位にいたのが、聞得大君と呼ばれる女性神官です。国王のヲナリ神として政治にも強い影響力を持っていた聞得大君とは、一体どんな存在だったのでしょうか?
聞得大君とは
政治と宗教が一体となっていた琉球王国では、王国内の最高権力者を国王、宗教の最高位を聞得大君としていました。
女性には基本的に神に通じる力があると考える琉球神道では、兄弟のいる女性はすべてヲナリ神であるとしています。そのため聞得大君には、最高権力者である国王のヲナリ神として、国王の姉妹が任命されました。
聞得大君の正式名称
聞得大君は、正式名称ではありません。琉球神道上の名前では、「しませんこ あけしの」といい、沖縄の方言での正式な名前は、「チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)」といいます。
歴代の聞得大君たち
琉球王国崩壊後も存在していた聞得大君は、尚真王の時代に初めて初代が就任してから、戦後に聞得大君が廃職となるまで、なんと18代もの聞得大君が誕生しました。
聞得大君は、国王のヲナリ神でもあるため、国王の姉妹や妃など、王族の女性が任命されました。
- 初代:尚円王女の音智殿茂金
- 2代:浦添王子朝満女の真加戸樽
- 3代:尚元王妃
- 4代:尚永王女
- 5代:金武王子朝貞女
- 6代:尚貞王妃
- 7代:尚純妃
- 8代:尚益王妃
- 9代:尚敬王妃
- 10代:尚敬王女
- 11代:尚敬王女
- 12代:尚哲妃
- 13代:尚穆王女
- 14代:尚温王妃
- 15代:尚灝王女
- 16代:尚灝王女
- 17代;尚泰王女
- 18代:尚典女
時の政治によって誕生した聞得大君という地位
琉球王国の国王には、第一尚王統と第二尚王統の2つが存在します。初代聞得大君が誕生するのは第二尚王統からなのですが、その誕生の裏には、権力をめぐる国王の正室の野望が隠されていました。第二尚王統の祖である尚円金丸には、オギヤカ(宇喜也嘉)という正室がいました。
金丸とオギヤカは30歳も年が離れており、金丸が62歳でこの世を去った時には、オギヤカはまだ32歳の若さ。長男である尚真は、13歳を迎えたばかりの幼さでした。
そこでオギヤカは、自らが首里城で女帝として君臨するために、幼い息子を国王にし、少年王の母后として権力を握る野望を企てます。
まずオギヤカは、琉球王国の様々な場所に配置されたノロ(祝女)たちを王府の支配下に置く組織を作り上げます。
ノロは、王国内の各集落に配置されており、集落内の祭祀を司っていました。そのため、女性ではあっても、集落内で強い発言力を持っていました。オギヤカは、このノロを利用し、首里城でのオギヤカの発言力を王国全域に広めるために利用したのです。
さらにオギヤカは、それまでノロの最高位であったサスカサを第二位へ格下げし、新たに聞得大君という役職を作り、初代に自分の娘を就任させます。
こうしたオギヤカの策略によって、国の最高建暦者である国王に長男をおき、宗教の最高位である聞得大君に長女を就任させることによって、母であるオギヤカがすべての実権を握ることになったのです。
オギヤカの企ては、これだけでは終わりません。自ら作り上げた政祭一致体制をより盤石なものにするために、国王となった長男の尚真に命じて、第二尚王統の王族の墓として新たに立てさせた玉陵に「呪いの石碑」を建てさせます。
そこには、「オギヤカの血を引くもののみ、王陵に葬られることを許される」「第二尚家の血筋を引くもの以外は、国王として認めない」「この命令に背くものがいれば、祟りがある」と記しました。
オギヤカの呪いの石碑は、現在、世界遺産に登録されている玉陵で見学することが出来ます。
オギヤカの呪いの石碑(玉陵)- 住所:沖縄県那覇市首里錦城町「1-3
- 電話:098-885-2861
- 入場時間:9:00~18:00(最終入場17:30)
- 定休日:なし
- 入場料:大人¥300円、小人¥150
聞得大君のお仕事
琉球神道の最高位である聞得大君のお仕事は、とってもハード。宗教の最高位として、本島最高の聖域である斎場御嶽はもちろんのこと、首里城内にあった10の御嶽にかかわる儀式もすべて聞得大君が司っていました。
聞得大君の最初の大仕事
聞得大君に任命されると最初に行う大仕事が、「御新下り」と呼ばれる就任の儀式です。
これは、琉球の創造神との結婚(神婚)という意味がありました。神様と結婚することによって、聞得大君としての霊力が生まれます。
かなりハードな聞得大君のお仕事
聞得大君のお仕事は、ただ忙しいだけでなく、様々な場所に点在する拝所を移動しなければならないため、それだけでもかなり大変だったようです。
なにしろ、この時代の移動手段には、現在のように便利な車や船などはありません。それにもかかわらず、最高聖地とされる久高島遥拝での儀式を行うときには、首里城を出てからわざわざ与那原や佐敷を経由し、本島最高の聖域である斎場御嶽を回り、久高島へと渡ります。
現在では、本島から久高島まで高速船を使えばわずか15分で移動することができますが、当時は、手漕ぎの船でしか久高島へ渡ることができません。聞得大君の負担もさることながら、彼女の移動に随行する人々にとっても、かなりの重労働だったにちがいありません。
相当広い聞得大君の家
神様と結婚を済ませた聞得大君には、聞得大君御殿という専用の家が与えられます。18世紀初頭に作られた「首里古地図」によると、現在の首里汀良町・首里大中町のあたりに聞得大君御殿があったことが記されています。
建物の周りを石垣で囲まれていたといわれている聞得大君御殿は、かなりの広さがあり、建物の敷地面積だけでも、約2,000坪あったといわれています。
聞得大君御殿は、沖川兼設置後、神殿部分が中城御殿へと移され、その他の敷地や建物は、明治中期以降に個人へと払い下げられました。戦時中は、沖川県立師範学校の寄宿舎として敷地は使われましたが、沖縄戦の後は、首里中学校のグラウンドとなりました。
聞得大君御殿跡(那覇市立首里中学校グラウンド)現在は、聞得大君御殿跡であることを示す案内看板が、首里中学校正門わきに立てられています。
- 住所:沖縄県那覇市首里汀良町2-55
- アクセス:モノレール首里駅より、徒歩3分です