
沖縄はその昔「琉球王国」と呼ばれる独立国でした。周囲を海に囲まれた小さな南の島でしたが、海外貿易によって独自の発展を遂げてきました。ではそんな琉球王国はどのようにして誕生したのでしょう?
もともとは海の周りで集落を作っていた
沖縄は海に囲まれた島ですから人々の生活の基盤はすべて海にあり、貝や魚を採って日々の暮らしを支えていました。そのためはるか昔は、人々は海辺に集落を構えていました。そのことがわかるのが、県内各所にみられる貝塚です。
本州ではこの時代には海辺よりも内陸部に集落を作ることが一般的で、山での狩猟や水田による稲作などが行われていました。それに対して沖縄では、この時代に水田などの遺跡は見つかっていません。そのため沖縄ではこの時代のことを「貝塚時代」と言っています。
農耕が始まったことによって内陸部へ集落が移動
海の恵みだけに頼っていた島の暮らしですが、農耕が始まると少しずつ生活にも変化がみられるようになります。もともと沖縄は台風や潮風などの被害が多い地域であり、海辺は人々が安心して暮らし続けるには決して安全な場所ではありませんでした。とはいえ生活の基盤を海の恵みでしか支えられなかったため、人々は危険を承知の上で海辺での生活を続けざるをえなかったのです。
こうした生活に変化をもたらしたのが、農耕の発展です。作物を育てることによって食料を確保する手段をえることが出来るようになると、集落そのものも徐々に内陸部へと移っていきます。そして農耕が人々の間で広まっていくと、集落の規模も少しずつ大きくなります。
集落が大きくなれば、必然的にその集落のまとめ役となるリーダーが誕生します。そしてリーダーを中心に村が形成され、力のあるリーダーのもとには人々が集まるようになります。沖縄では村のリーダー的存在(支配者層)のことを「按司(あじ)」と呼びます。
按司はその権力を誇示するために、大きな城(居城)を構えるようになります。沖縄では「城」のことを「グスク」と呼ぶため、この時代のことを「グスク時代」と呼んでいます。
東アジア貿易によってさらに力を持つようになる按司たち
今では沖縄は日本の一部ですが、本州からの距離を見てもわかる通り遠く離れた場所にあります。それに対して中国などの東アジアは、沖縄にとっては本州よりも近くて力のある貿易国でした。
そこで村の按司たちは東アジアとの交易を積極的に行うようになります。当時の沖縄は、豊富な海産資源だけでなく良質な硫黄も多く産出していました。中でも漆器の装飾などの材料として重宝されていた夜光貝は東アジアの人々にとっては非常に貴重な資源であり、喉から手が出るほど欲しがる品物でもありました。
そのため村の按司たちは、島でとれる夜光貝や硫黄などを武器や陶磁器、貨銭と交換し財と力を蓄えていきます。これが10世紀ごろのことです。力を持つようになった按司たちは、さらに大規模な居城を作るようになり、力のある按司は周辺の村を吸収しながらさらに力をつけ、やがて「王」となります。
14世紀ごろになると沖縄本島各地に多くの王が存在するようになりますが、これも時間とともに淘汰されていき、最終的には本島全体が3人の王たちによって支配されるようになります。これが、琉球王国誕生のきっかけとなった「三山時代」の幕開けです。
3つの国を統一したことで誕生した琉球王国
三山時代はおよそ300年近く続きますが、その間もそれぞれの王たちは独自のルートで中国や東アジアとの貿易を続け力を強めながら対立しあいます。最初にこの三つ巴の状態から動きを見せたのが、佐敷の按司(現在の南城市のあたり)であった「尚巴志(しょうはし)」です。
尚巴志は強い兵力を持っており、武力の力によってまず初めに中山国を制圧します。そしてその勢いのまま北山国を制圧し、最後に南山国を制圧します。こうして長きにわたりづついてきた三山時代は幕を閉じ、1429年に琉球統一を果たします。
三山統一したのに自分の父親を王位につけた尚巴志
普通であれば戦を仕掛け念願の島の統一を果たした人物が初代の国王になりそうなものですが、琉球統一を果たした立役者である尚巴志は違いました。彼はなぜか自分の父親を王位につけ、国の首都を首里に移します。こうして始まったのが琉球王国であり、その後七代続いた尚巴志の琉球王国は「第一尚氏(しょうし)王朝」と呼ばれることになります。
海外交易によって独自の文化を誕生させた琉球王国
三山時代以前からすでに東アジアとの交易の歴史を持つ琉球王国は、首里に都を移し第一尚氏時代となってからも積極的に海外と交易を続けていきます。特に尚巴志は海外との交易こそが国の発展に役立つことを見抜いていたため、東アジアとの交易を国家プロジェクトとして積極的に推し進めていきます。
尚巴志が目を付けたのは、琉球王国の位置にありました。当時の東アジアの貿易拠点といえば、中国・日本・朝鮮です。これらの国々のちょうど中間地点に位置していたのが、琉球王国です。そのため琉球王国を東アジア交易の中継ぎ拠点とすることに目を付けます。尚巴志のこの狙いは見事に当たり、琉球は東アジア交易における中継ぎ拠点として地位を確立します。
そのことによって琉球には東南アジアからの様々な貿易品が集まる場所となり、そこから尚巴志は自分の国に役立つ情報や文化などを吸収し、さらに発展させていきました。このような過程から生まれたのが、沖縄の三線や紅型など沖縄独自の文化です。まさに尚巴志の編み出した国策によって、今の沖縄の伝統文化の基礎が生まれたといっても過言ではないでしょう。