
琉球王朝の国王には、第一尚氏系統と第二尚氏系統の2つがあります。初めて琉球統一を果たしたのは第一尚氏系統ですが、第二尚氏系統はなんと百姓から身を立てた人物が初代国王!さてその人物とは?
第二尚氏初代国王は伊是名島の百姓だった
第二尚氏初代国王の名は、尚円王(しょうえんおう)といいます。彼は生まれながらにして王族の血を引く人物というわけではありません。生まれたのも都がおかれていた本島の首里ではなく、首里から遠く離れた伊是名島でした。
琉球王国の国王となるまでの彼は、金丸(かなまる)と呼ばれていました。金丸の両親は伊是名島で百姓をしていましたが、彼が二十歳の時に両親がなくなり、家業の百姓を継ぐことになります。金丸は25歳の時に生まれ島である伊是名島を離れ沖縄本島にわたったと記録されていますが、なぜ島を離れたかについては様々な話が残っています。
実はプレイボーイだったことが島を離れた原因だった?
金丸が伊是名島を離れる際には、妻と10歳の息子も一緒だったといいます。これが本当だとすれば、10代の半ばでは結婚し子供が生まれていたことになります。妻子持ちの金丸ですが、どうやらとんでもない美男子だったといいます。
島を歩けば島中の女性たちが彼に声をかけ、妻子ある身でありながら島中の女性たちからモテまくったのだといいます。彼が女性たちからのもうアプローチにどう対応していたかについてはよくわかりませんが、島の男性たちにとっては気持ちのいい状況ではありません。
結婚して妻も子供もいるのに、島の女性たちは独身の自分たちではなく既婚者の金丸のほうにばかり声をかけているのですから、ほとんどの島の男性たちはそんな金丸に対して強い嫉妬心をもったでしょう。そのため金丸が島を離れた話の中には、島の男たちのやっかみが原因だったという話もあるくらいです。
百姓から王の側近にまで一気に出世していく金丸
伊是名島を離れ都のある首里に移り住んだ金丸は、故郷での暮らしと同じように百姓をして生計を立てます。そんな金丸が国王になるきっかけとなったのが、のちの尚泰久との出会いでした。
金丸と出会った頃の尚泰久はまだ即位をしておらず、越来王子(現在の沖縄市を治める役人)という地位にいました。たまたま馬に乗って首里城の下にある龍潭池のあたりを通りかかったとき、尚泰久の姿を見るなり急に何かを懐に隠したみすぼらしい恰好をした金丸に会います。「何を隠したのか?」と尚泰久が金丸に問いただしたところ、懐からわずかばかりの食べかけの握り飯を出したといいます。「なぜこんなわずかな握り飯を隠す必要があるのか?」と再び聞くと、「自分にとっては大切なものなのだ」と答えたのだそうです。
これが尚泰久と金丸の出会いであり、やり取りそのものも本当に短いやり取りだったといいます。それでも金丸に何か心惹かれるものを感じた尚泰久は、のちに自分の領地へと連れて帰ったといいます。
尚泰久の領地で下級官人としての仕事を与えられた金丸は必死に仕事に打ち込み、なんとその5年後には王府の高官に任命されます。さらにその後もものすごい勢いで出世し続け、翌年には尚泰久の側近にまでなります。
45歳の時にはすでに王となった尚泰久の側近としてだけでなく、国の政治に欠かせない人物にもなっていた金丸。25歳の時に伊是名島から出てからわずか20年で国王の側近の地位まで駆け上がったのは、長い琉球王朝の歴史においても金丸ただ一人でしょう。
第二の転機でついに国王へ
猛烈なスピード出世で国王の側近にまで上り詰めた金丸ですが、46歳の時に彼の出世のきっかけを作ってくれた尚泰久王がこの世を去ります。尚泰久王を含め3名の王に仕えてきた金丸でしたが、尚泰久の後を継いだのは若干二十歳の尚徳王でした。
金丸は、尚泰久に仕えてきた時と同じように若い尚徳王の補佐として支えていきます。ところが何につけても金丸の指示を受けなければならない状況に、尚徳王は次第に嫌気がさしてきます。ついには金丸の意見を全くきかなくなってしまった尚徳王に見切りをつけた金丸は、官職をやめ首里を離れます。
ところが金丸が首里を離れた翌年、尚徳王が急逝します。その後尚徳王の幼い息子を王として迎えるため即位式の準備を進めていたところ、白髪の老人が突如その場に現れ、急逝した尚徳王の悪政を暴露し、忠実に王に仕え続けてきた金丸こそが次の国王に相応しいと周囲の役人たちに訴えます。
これをきっかけに周りからもその老人の意見に賛同する声が次々と上がり、その勢いがものすごい勢いで王府中を飲み込んでいきます。ついには即位式に出席するはずだった尚徳王の息子たちを首里城から追い出し、首里から去った金丸を国王として迎え入れることになります。
こうして伊是名島の百姓だった金丸は、琉球王国の国王にまで上り詰めます。そして名前も金丸から「尚円」と変えます。琉球王朝時代の国王について語るときに尚円王以降の国王のことを第二尚氏と呼ぶようになったのも、このような金丸の出世の歴史と深く関係していたのです。