買い物をしようと町中を歩いていると「繁多川字指定文化財」の看板を見つけました。たくさんあるようなので、探しながら歩いてみました。
メーミチーとウフカー
メーミチー(前道)は案内板によると「尚真王の頃に築かれた真珠道(まだまみち・石畳敷)の一部でした。北はシチナンダビラ(識名坂)を経て首里へと続いています。
主要な井泉(せいせん)がこの道沿いに多いこともあって、昔から繁多川の地域住民の生活に密着した道であるとともに、他地域の人々の往来も多い道でした。」とあります。今はアスファルトで舗装された道になっています。
その案内板の隣にはもう一つ案内板があって、ウフカー(大川)とあります。
「古来、人々は泉の湧くところを見つけ、集落を形成してきました。そのため、古い泉は人々の飲料水・生活用水として大切にされ、かつ神聖視されてきました。このウフカーも戦後まで正月のワカウビー(若水)を汲む井泉として利用されてきました。また、ウフカーの豊富な水を利用して昭和30年代に簡易水道が敷設され、繁多川の各世帯に水が供給されました。」と書いてあります。
坂道を下りると大きな井戸がありました。

海の近い沖縄県ですから、真水が得られる泉はとても貴重だったのでしょう。つい最近まで現役だったというのも感慨深いです。
ボージガー(坊主川)
すぐ近くには、ボージガーがありました。

案内板には「ボージガーの名称は、近くにあった神応寺や識名宮にちなんだものであったといわれています。ボージガーの水は、非常においしく、繁多川豆腐作りには大いに利用されていました。」とあります。
今でも水をたたえていて、子供たちがザリガニ釣りをして遊んでいました。

メーミチーに残る石垣塀
看板に「琉球石灰岩を加工して作られた石垣塀です。旧神村酒造所跡です。」とあります。

お酒づくりには良いお水が欠かせませんからね。このあたりが水に恵まれていたことが良くわかります。
識名馬場跡(シチナウマイーあと)
王府時代に使われた馬場です。馬場とは乗馬やくらべ馬をするところのこと。案内板にはその当時は、「全長300メートル、幅30メートルほどあった」と書いてあって、とても広かったようですが、戦時中に開墾され、今は子供の遊び場になっています。

繁多川に残るンムドーニー
繁多川公民館の前に「ンムドーニー」がありました。案内板によると「収穫したイモを洗うための石製のたらいです。水を入れてイモを足で踏み洗いしました。底には水はけ用の孔があり、栓をして使用しました。」とありました。

琉球石灰岩で出来ているそうです。「ンム」はイモのことですね。昔はイモが主食だったそうなので、たくさんのイモを洗ったんでしょうね。
識名宮(しきなぐう)

案内板によると「識名宮は琉球八社と呼ばれた社のひとつです。特に琉球王の篤い信仰を承け、尚元王の長子、尚康伯の病気回復に霊験を得て、識名宮と神応寺を建てたと言われています。尚賢王から毎年1・5・9月の吉日に国王の参拝が始まりました。」とあります。

しんかぬちゃーまーいー

案内が書いてありました。「しんかぬちゃーまーいー」は琉球王朝時代の古い道筋をたどりながら、地域の歴史や文化遺産に接し、楽しく散策が出来るように整備された散歩道です。この散歩道は首里城継世門から識名園に至る、およそ1.9kmの道筋にある崎山馬場跡、雨乞嶽、御茶屋御殿後(王家の別邸)、ヒジ川ビラ(石畳道)、識名馬場跡などの史跡をたどるように整備されています。道しるべをたどっていくと、地域の歴史や文化が身近なところに刻み込まれている様子を見ることができます。」
私が見つけられたのはこれだけですが、まだまだ史跡はあるそうです。いにしえの人々の様子に思いをはせることが出来ました。史跡を大切にしつつ、現在の生活も送れるように共存、共栄が必要だと感じました。歴史を感じられる繁多川を散歩してみませんか。